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ピアニスト水上裕子 エッセイ

読売新聞 コラム「母国語は心の栄養」

私にはピアノという万国共通のツールがあり、そのおかげで海外でも、また日本各地の
見知らぬ町でも音楽を通して、多くの方たちと友好を深めることができた。

しかし、それはある一面にすぎず、長い外国生活の中では、ピアノでコミュニケーション
とってサバイバル・・・なんて全てがそういうわけではなかった。

今から20年前の8月。私は旧ソ連の崩壊を目の当たりにした。宿舎の周りには戦車が
並び、モスクワの町から全ての音が消えた。テレビやラジオの放送も消え、静けさの中
時折鳴り響くのは銃撃戦の音。ゴルバチョフ元大統領が軟禁されていた三日間、恐怖の
中、耐えられたのは同じモスクワで学ぶ日本人学生とコミュニケーションをとる事ができた
からだ。

クーデター終結後はチャウシェスクという元大統領が失脚したばかりのルーマニア
に向かった。別に深い理由があったわけではない。大好きなピアニストが
ルーマニア人だったので、この偉大なピアニストを生んだ国を見てみたい、
と思ったのだ。
貧しく小さな旅客機。モスクワでの緊張感から開放され、その機内で爆睡する私の
膝の上に置かれてあったのは1冊の日本の雑誌だった。
久しぶりの日本の活字を、私は飢えたライオンのように貪り読んだ。
この小さな飛行機の中にもうひとり日本人がいらしたのだ。その方は日本人の
私を見て驚き(当時、ルーマニアに旅する日本人はほとんどいなかった)持参した雑誌
を私にプレゼントして下さった。母国語の読み物は最高の贈り物だった、

その後オーストラリアで結婚、出産。初めての出産と子育てに戸惑う私を支えてくれたのも
日本人ソサエティーだった。次女を出産したドイツでも同じだった。日本料理を作って
持ってきて下さったり、娘たちのセーターを編んで下さったり、子どもが熱を出せば
駆け込んで、いろんな相談にものってもらった。
行く先々で母国語でのコミュニケーションがあったから苦しい時も、生きてこれたのだ。


1994年から親子3人でルーマニアに滞在した時のこと。住んで1年が過ぎた頃、
私の中で急に心が折れた、というかプツンと何かが切れた。もう限界だというサインを
感じた。周りの人たちとのコミュニケーションはもちろんルーマニア語。
それも覚えたての幼稚な 生きていくのに必要最低限のものだった。
そして、気がついたら私は1年間全く母国語を口にしていなかった。
母国語が恋しくて、あの面白くてめちゃくちゃ融通がきいて、それでいて微妙なニュアンス
に富んだ日本語で喋りたくて危篤状態になっていたのだ。母国語を奪われるほど苦しい
事はないと思う。

紆余曲折を経て日本に帰国した私は日本語にどっぷり浸り、読み、聴き、
喋り、日本語の楽しさを満喫した。
何語を喋ったらいいのかぼんやりしていた娘たちも安心して日本語を覚え、
近所の家に無断で上がりこんで誰にでも話しかけた。
今は亡き母は「この子たちの躾ができてないから恥をかいたけど、そのおかげで
ご近所とのお付き合いがはじまった」と本当に嬉しそうにしていた。
私がコンサートのときは母は子ども達を連れ、一緒にご近所にあがりこんでいた。
「この子ども達はご近所に育てられた」が口癖だった。

言葉によるコミュニケーションは人を育てる。
近年地域間のコミュニケーションが希薄だなんて時々耳にするが、もったいない
気がしてならない。
食物が体の栄養だとするなら言葉は心の栄養だというのが実感だ。