記事一覧

ピアニスト水上裕子 エッセイ

「嵐の中へ」

ファイル 397-1.jpgファイル 397-2.pngファイル 397-3.jpgファイル 397-4.jpgファイル 397-5.jpg

6月11日
北九州アルモニーサンク ソレイユホール
大盛況!!ありがとうございました!!
心より感謝を申し上げます!!

ピアニスト水上裕子 エッセイ

20年前と…

ファイル 396-1.jpgファイル 396-2.jpgファイル 396-3.jpgファイル 396-4.jpgファイル 396-5.jpg

新しい写真をたくさん撮ってもらいました。
20年近く前からお世話になっているアトリエ木下です。
20年前と変わった?あんまり違わない気もするけど日本人は
やっぱりある程度の年から変わらないのではないかと…
そう思うのは私だけ?
ちなみにこれはアルバムのジャケット用です❤

ピアニスト水上裕子 エッセイ

住宅建築新聞 2月号 ワクワク旅日記「世界の衣食住」

ピアニストHirokoのワクワク旅日記

~世界の衣・食・住~

私がオーストラリアに住んでいた頃、”日本でバブルがはじけた”というニュースが
流れていた。バブルが何なのかもよくわからなかったけれども、とにかくきらびやかな
贅沢な暮らしを享受できた時代だったらしい。バブルと言っていたその時期、日本の
大学から先生方が世界の生活調査と称してオーストラリアに来られていた。
その先生方の一言を今でも覚えている。「オーストラリアの生活水準は非常に高く
バブル期にあって、日本の「中の上」の生活はオーストラリアの「中の下」だ」
と言われたことだ。

なるほど・・・。どんな貧しい一人暮らしの学生のアパートでもひねればお湯が出るし、
実際、私が住んでいた家も家賃、日本円にして4万5千円程度。高級住宅地で
3ベッドルームに美しいパティオまであった。
物価は安く、税金は高かったけれど、それは高額所得者の問題であって、
私の様な低所得者アーティストは、様々な面で優遇されていた。
もっと収入が低くければ電車やコンサート、八百屋や肉屋での割り引きまであった。

ではそんなオーストラリアの「上」の家はどんなかというと、ユダヤ人富豪の家で
ご主人の誕生日パーティーで演奏してほしいと依頼された時のこと。
ドアを開けて思わず言葉が出た。「えっ!これって家?」
その声が「えっ!これって家?」「えっ?これって家?」・・・・・・と反響するのだ。
天井は吸い込まれそうに高く、遥か向こうからご主人様が歩いてやって来た。
玄関ホールだけで音響の良いコンサートホールが作れそうな、
日本では決してお目にかかれない様な豪邸だった。

しかしオーストラリアの本当の面白さは豪邸ではなく、外国人が移住し始めて
間もないという歴史の浅さにある。なぜなら、外国からの移民はまだ自分の国を
ひきずってここで生活している。それがエキサイティングなのだ。
ロシア人の家に行くと、南半球に住んでいるにも関わらず、
壁に分厚い絨毯がかけられてあった。韓国人の友人の家からは
キムチのいい匂いがしてくるし、ドイツ人の友人の家は重厚でシンプル。
つまり、オーストラリアに行くと世界中の住宅、生活の香りが半径10KMにして
味わえるのだ。
では日本人はどんなライフスタイルだったかって?
私の友人を例に上げると、リビングにこたつを置き、そのこたつの上にみかん。
その隣に湯呑み、そして注文できるはずもない生協のカタログが置いてあった。

ピアニスト水上裕子 エッセイ

読売新聞 コラム「母国語は心の栄養」

私にはピアノという万国共通のツールがあり、そのおかげで海外でも、また日本各地の
見知らぬ町でも音楽を通して、多くの方たちと友好を深めることができた。

しかし、それはある一面にすぎず、長い外国生活の中では、ピアノでコミュニケーション
とってサバイバル・・・なんて全てがそういうわけではなかった。

今から20年前の8月。私は旧ソ連の崩壊を目の当たりにした。宿舎の周りには戦車が
並び、モスクワの町から全ての音が消えた。テレビやラジオの放送も消え、静けさの中
時折鳴り響くのは銃撃戦の音。ゴルバチョフ元大統領が軟禁されていた三日間、恐怖の
中、耐えられたのは同じモスクワで学ぶ日本人学生とコミュニケーションをとる事ができた
からだ。

クーデター終結後はチャウシェスクという元大統領が失脚したばかりのルーマニア
に向かった。別に深い理由があったわけではない。大好きなピアニストが
ルーマニア人だったので、この偉大なピアニストを生んだ国を見てみたい、
と思ったのだ。
貧しく小さな旅客機。モスクワでの緊張感から開放され、その機内で爆睡する私の
膝の上に置かれてあったのは1冊の日本の雑誌だった。
久しぶりの日本の活字を、私は飢えたライオンのように貪り読んだ。
この小さな飛行機の中にもうひとり日本人がいらしたのだ。その方は日本人の
私を見て驚き(当時、ルーマニアに旅する日本人はほとんどいなかった)持参した雑誌
を私にプレゼントして下さった。母国語の読み物は最高の贈り物だった、

その後オーストラリアで結婚、出産。初めての出産と子育てに戸惑う私を支えてくれたのも
日本人ソサエティーだった。次女を出産したドイツでも同じだった。日本料理を作って
持ってきて下さったり、娘たちのセーターを編んで下さったり、子どもが熱を出せば
駆け込んで、いろんな相談にものってもらった。
行く先々で母国語でのコミュニケーションがあったから苦しい時も、生きてこれたのだ。


1994年から親子3人でルーマニアに滞在した時のこと。住んで1年が過ぎた頃、
私の中で急に心が折れた、というかプツンと何かが切れた。もう限界だというサインを
感じた。周りの人たちとのコミュニケーションはもちろんルーマニア語。
それも覚えたての幼稚な 生きていくのに必要最低限のものだった。
そして、気がついたら私は1年間全く母国語を口にしていなかった。
母国語が恋しくて、あの面白くてめちゃくちゃ融通がきいて、それでいて微妙なニュアンス
に富んだ日本語で喋りたくて危篤状態になっていたのだ。母国語を奪われるほど苦しい
事はないと思う。

紆余曲折を経て日本に帰国した私は日本語にどっぷり浸り、読み、聴き、
喋り、日本語の楽しさを満喫した。
何語を喋ったらいいのかぼんやりしていた娘たちも安心して日本語を覚え、
近所の家に無断で上がりこんで誰にでも話しかけた。
今は亡き母は「この子たちの躾ができてないから恥をかいたけど、そのおかげで
ご近所とのお付き合いがはじまった」と本当に嬉しそうにしていた。
私がコンサートのときは母は子ども達を連れ、一緒にご近所にあがりこんでいた。
「この子ども達はご近所に育てられた」が口癖だった。

言葉によるコミュニケーションは人を育てる。
近年地域間のコミュニケーションが希薄だなんて時々耳にするが、もったいない
気がしてならない。
食物が体の栄養だとするなら言葉は心の栄養だというのが実感だ。

ピアニスト水上裕子 エッセイ

奄美の煮物

 「これは、奄美のお正月料理ですよ」と、出された煮物。

 九州のお正月料理、筑前煮と見かけは良く似ていたけど

 鶏肉ではなく、何と骨付き豚肉が入っていた。

 その豚肉はトロトロでとってもおいしい。

 シイタケと思って口に入れた黒い食べ物は、きくらげだった。

 それに奄美名物の「油そうめん」もビーフンを思わせる。

 やっぱり中国文化に近いよね。 

 日本は小さな島国なのに、見たこともないようなお料理や食材を

 旅先で見かけることが、しばしば。

 山形では、菊の花びらを食べたし、生まれて初めて見る

 魚もいっぱいだった。

 栃木で「かんぴょうはお好きですか?」と訊かれ、驚いた。

 私にとって、かんぴょうは好きとか嫌いとか答える食べ物

 ではなく、よける食べものだった。

 太巻き以外でかんぴょうにお目にかかることはない。

 ふっくら甘い玉子焼きにふくよかなお酢のきいたご飯、

 香ばしい焼き海苔のコンビネーションの中に突如、現れる
  
 ストロングな濃い、ガングロかんぴょう。これをよけて

 食べるのは当たり前。それを好きか嫌いかと聞かれ、

 困惑していたら、堂々たる大皿にかんぴょうが盛られ

 テーブルのど真ん中に出てきた。

 目が飛び出しそうになった。

 しかし、そのかんぴょうの美味しかったこと!

 その日からかんぴょうは私の大好物になった。
 
 山梨出身の友人が、麦茶に砂糖を入れて飲んでたのを見た時は

 バットで殴られたような衝撃だった。

 ドイツやルーマニアのすみずみを回っても、見たこともない様な

 料理が次々出てくることなんて絶対ありえない。

 日本って不思議。

 
 


 


 

ピアニスト水上裕子 エッセイ

「食の王国」

わたし的に食の王国は、タイやベトナム、トルコなどのエスニック。

しかし冷静に判断した場合は、中国VSオーストラリアかなあ。

中国がフランスに勝る理由は今まで中国を訪れて、2回と同じ料理を食べたことがないからだ。

一体、何百種類の料理があるのかと驚く。毎回「これは何と言う料理ですか?」と、一皿ずつ質問しなければならない。


一方、新「食の王国」はオーストラリア。これは私の独断ではないのです!
メルボルン交響楽団の桂冠指揮者、岩城宏之氏もおっしゃった。

メルボルン交響楽団のコンサートに行った時、現代曲の素晴らしい演奏に感動して、受付にメッセージを残して帰った。

次の日、「メルボルン交響楽団ですが、マエストロ岩城があなたとお話ししたいと言われてます。では代わりますので」

と、言われびっくりした。当時マエストロ岩城は、私たちメルボルン市民にとって雲の上の方。
「すばらしい感想をありがとう、何かおいしいものを食べながら、お話ししましょう。」
と、言って頂き、有頂天で出かけたのを覚えている。

サントリー(燦鳥)レストランで、世界一美味しいオーストラリアの日本食を頂きながら、例の質問をぶつけてみた。

マエストロも「食の王国はオーストラリアだよ。それもここメルボルンだね」

やはり・・・そうだ。世界中まわってらっしゃるマエストロのお墨付きをいただいた。間違いない!

マエストロいわく、オーストラリアは移民の国として歴史が浅いから、各国の料理がまだ、OO風とか、日本人に合った00料理なんて感じにはなっていない。
すなわち、世界中の伝統料理がそのままの形で味わえる、のだそうです。

残念ながらマエストロはお亡くなりになられたが、市民に愛され、メルボルンの文化芸術の発展に大きな貢献をされた、その功績は感謝とともに、市民の心にいつまでも残っているに違いない。


Hiroko

ピアニスト水上裕子 エッセイ

家族ネタ

講演やエッセイなど話題がつきると、家族ネタに走る。

家族のことだったら何を言おうが罪はない。

子どもたちは未成年だから私の職場に足を踏み入れないし、夫は日本語がわからないし、母は天国だ。

だから私は言いたい放題なのである。

母はよく私の話が面白いと言って、涙をながすほど笑ったものだった。

オーストラリアに来たときはお土産に、母の初の海外旅行を4コマ漫画にして書き綴ったものをあげたら母は泣き出した。
いや、泣き出したと思ったら、笑いすぎて涙があふれたのであった。


あんなに似顔絵もそっくりで、おかしく描かれてイヤじゃないのかなと思ったら、何と母は日本に帰り、それをコピーして、綴じて小冊子にして同僚に「おみやげです」と言って配ってまわったのだ。

皆さんありがたくも涙を流して笑って下さったそう・・・。


やがて、その私にライバルが登場。

長女の沙羅だ。

彼女は踊れるので、より、芸が立体的。

母がダンスのパートナー、酒井さんと社交ダンスの発表会に出た様子を小学校3年生の時に「ひとり社交ダンス」と称して、母と酒井さんの踊り、そしてすぐにスポットから消されるさまを見事に真似た。

母は笑い転げ、立ち上がれなくなり私と酒井さんで両脇を抱きかかえ歩かせた。


講演会ではよく母の話をして笑いをとった。

こっそり、会場に私を見に来た母は、会場全体が自分のことで大笑いしてるのを見て、いてもたってもいられなくなり、思わず「それは私じゃない!」と、叫んで会場をあとにしたそうだ。

本当に母とは、いっぱい笑った。いっぱい叱られもしたけどネ。

今も、どんな状況でも、はたから見ると笑えないときでも何故か周りは笑いでいっぱいだ。

隣にいる(いるであろう)母に話しかける。

「どう?今日も面白かった?」
「ほんと、あんたといるとヒヤヒヤするけど永遠に退屈せんね」 

今日も笑ってくれてる気がする。

                                     END
                                                Hiroko

ピアニスト水上裕子 エッセイ

瀋陽日記 最終回

長女の名前の中国語読みは”シャーロゥ”

ちなみに私、裕子は ”ユィズゥゥー” とても発音しにくい。

ついでだが次女のアンナは中国語の漢字になおすと、杏雪となり、シンシュエとなる。

本人はとっても気に入っていて、「あんな」の ”な”が、菜っ葉の”な”ではなく、雪になったというのでロマンチックな気持ちになってしまっている。

シャーロウはたくさんの中国人のお友達ができたらしく、外に出ると、みんなが”シャーロウ!”と声をかけてくれるらしい。

勉強は出来ないが、昔から友達の多さはチャンピオン級だった。

運動会の時には、上級生、下級生、同級生の応援の声がこだまし、彼女はいつも笑いながら走っていた。

数日前も違うクラスの子と遊んでいたら、「ところで、シャーロウ、あなたの名前は漢字でどう書くの?」と、訊かれ

沙羅、と、書いたら、彼女たちが「え~っ!それは、シャーロウと読まないよ。」と、言ったのだそうだ。

「じゃ、どう読むの?」

「それは、さるお、って読むんだよ」

「え?・・・・・・さるお?・・・」

寮に電話したら、彼女が情けなさそうにその話をするので

「アハハハ! サル? なんて、沙羅にぴったりだよ!やっぱり沙羅は中国に縁があったのねえ」と、励ました。

沙羅も悲しく、納得した。

以来、寮に電話する時は、まずこう言う。

「猿夫いますか?」

      - 完 -

                                                Hiroko

ピアニスト水上裕子 エッセイ

瀋陽日記③

沙羅は泣き続ける・・・。ここでやっていける自信がないと・・・。

「でもさあ、ここまで来ちゃったんだから、あなたもそろそろ腹を決めないと。意外としつこい性格だね」

「ママはいいよね。私をうばすて山に捨ててさ、さっさと日本に帰って、どうせアンナとおすしでも食べに行くんでしょ」

(何でわかったの?)

「何でわかったの?って顔してる!やっぱりね。」

「とにかく、ママは明日から大連に行ってコンサートしてくるから、2日間ここに慣れるように頑張っててね!」

「ぅえ~ん!!嫌だよお、私も大連に行く~」私の胸に顔を埋めて号泣し始めた。

しつこい性格だのなんだのと言っても、心の中は私も辛い。気をゆるめると、私も泣いてしまう。

前日は「じゃあね」と、言ってドアを閉め寮の階段を下りて行こうとしたら、沙羅が階段を駆け下りてきて追いかけてきた。辛くて、後ろを振り向けなかった。

今日は号泣。泣き声は段々大きくなってゆく。

(どうしよう・・・。本当にこのまま置いていって大丈夫なのかしら・・・。病気にでもならないだろうか)

すると、ずっと沙羅の顔を覗きこんでいたアンナが呟いた。

「お姉ちゃん、笑ってる・・・」

「えっ??」

「ママ、お姉ちゃん声は泣いてるけど、涙出てないよ。お顔が笑ってる」

沙羅、恐るべし!今日のは泣きまねだった!泣くのもいいかげん疲れたのだと。

「だってぇ、甘えたかったんだもん!じゃあ、ママ、大連でがんばってね。おみやげも忘れずに!」

                 ・・・・続く
                                                Hiroko

ピアニスト水上裕子 エッセイ

瀋陽日記②

いよいよ学校の門をくぐる。   「 うゎっ!!!  」

何?この美女軍団は!

みんなとにかく・・・細い・・・・

その細さと言ったら、まるで針みたいだ。・・・ただ細いのではなく、ハガネのような強さをうかがわせる。 

その顔の小ささと首長族のような、首の長さ。学校から飛び出して来る子、皆が皆そうなので驚く。

ピアノもそうだが、いよいよバレエも中国の時代がやってくるのかしら・・・。

ピアノは優秀な人がいすぎて、どうも中国は困っているそうな・・・。

しかし、こんな学校で学んでも、あの怠け者の娘が彼らと同じような体型になるなんて想像できない。

案の定、ピザとアイスクリームが食べたいと言う。寮で、お菓子を食べてるところを見つけられたら罰則があるそうで、沙羅は「今のうちじゃん」と言い出した。

「何で、あんたはそんなに性根がないの!あのスタイル見てなんとも思わない?こんなとこまで来て、まだアイスだなんて・・・ママもう帰りたい!」

「そんなこと、いいからさ、何か美味しいもの食べさせてよ!お菓子買ってぇ~!」

目の前が真っ暗になった・・・

寮に入り、「じゃあ、ママはホテルに帰るね」と、言ったら突然泣き出す。

「ママぁ~、沙羅、お家に帰りたいよ~!猫にも会いたいよ~!日本に帰る!ママ抱っこぉ」

子供なんだ・・・でもここまでとは思わなかった。でっかいのは体だけ・・・。

アンナまで便乗する。「ママ、一生のお願い!お姉ちゃんをお家に連れて帰って!」

・・・・・えっ?! (;^ー^)


                                                Hiroko

ページ移動