水上裕子プロフィール

プロフィール

ピアニスト
Hiroko  水上 裕子


武蔵野音大を卒業後、1988年オーストラリアでデビューし各地で演奏。
その後ロシアで研鑚を積み、91年〜95年ルーマニアを中心に活躍。

96年帰国、ザルツブルグ八重奏団との共演で日本デビュー。
これまでに、ウィーンフィル,オーストリア放送響、ベオグラードフィル、
ターリッヒ弦楽四重奏団のメンバーはじめルーマニア各地の国立交響楽団、等と多数共演。

2000年 「ベオグラードトリオ」(Vn・Vc・Pf)を結成
2003年 日本公演では旧ユーゴを代表するソリストとの共演で絶賛を博す。
2004年 音楽雑誌「ショパン」の表紙を飾る。

「クラシック名曲」と生きる喜びから湧き出る「オリジナル曲」に、
自身の「体験トーク」を交えて贈るコンサートは、すでに600回を越え、多くのファンを惹きつけ魅了。
エッセーや講演にもマルチな才能を発揮。
その活動は、NHKテレビ・ラジオをはじめ各マスコミでも紹介されている。

“芸術性と大衆性”を合わせ持つピアニストとして、日本はもとよりヨーロッパ、
アジア各国まで活動の舞台を拡げている。
故レフ・ナウモフ(モスクワ音楽院)、アナ・イフティンキ(ルーマニア),荒憲一の各氏等に師事。


■演奏評価
「ロシアとルーマニアの変遷にもまれながら、ピアニストとしての天性を、自らの力と情熱で切り開いた人。
力と勇気をもらえるだろう。」
(音楽評論家・作詞家 湯川れい子氏)
「この日の演奏と語りは1つのドラマであった。」
「彼女のことは短い文章の中ではとても語り尽くせない。」
(音楽評論家 家永勝氏)
「驚いた、感動した、衝撃はビートルズ以来だった。」 (松沢 悟氏)
「演奏を聴きながら魂が揺さぶられ、あふれ出る涙を止めることが出来なかった。」 (元財務大臣夫人 額賀三絵子さん)
「CD、ユーラシアンストーリーいつも聴いています。心やすまるひとときです。」 (大藪晴彦賞受賞作家 北 重人氏)
「HIROKOさんのピアノ最高!大好きです。」 (女優 相武紗季さん)
「波瀾万丈の人生!大胆かつ抱腹絶倒のコンサート。」 (杏林大学名誉教授 青柳利雄氏)
「強き心・平和への思い・慈悲、それが彼女の音楽だ。」 (文学博士 八木雄二氏)
「ピアノが歌っています!本来ピアノというものは、このようにやさしく歌を歌う楽器さんですね。」 (豊田クリニック 入山紀美子さん)
「彼女のオリジナル曲の素晴らしさはどこからくるのか、それは他者を思いやる力と共感だ。」 (東京貿易代表 熊本一夫)
「ヒロコさんの透明感あふれる、力強く繊細なテキニック、そして美しきフォルテに心うたれた。豊かな感性と音楽性に脱帽。」 (花谷かほるさん)
「私はベートーベンもシューベルトもはっきりわかりません。でもヒロコさんはビンビンきました。ピアノで涙を流した自分がうれしいです。」 (20代女性)
「私たちも必ず何かが乗りこえられるはずだ!と思わせるコンサートである。」 (経済ジャーナリスト 上妻英夫氏)
「ミナカミの才能に疑う余地はない」  (スクンテア紙)
「絶え間ない叙情の流れを見事に表現」
「あたかも真のシューベルトはここにあったかと思わせる」
 (ムジカノーヴァ)
「最近の若手、中堅にはない存在感に満ちた音色」 
「豊かな低音は壮大にうねる大陸を思わせる。実に心地よかった」
(音楽現代)
「感性豊かな演奏」 (ショパン)
「水上裕子のどん欲なところが良い。人生に対しても音楽に対しても、それでこそ音楽家であろう。」  (野平多美氏)


■ワールドコンサート



■もっとも印象に残る過去の出来事
「たった1 人の日本人。たった独りのピアニスト」
  オーストラリアでルーマニアからの政治亡命者である詩人のニコラエ・シリウス氏と結婚。
彼は、チャウシェスク政権時代、たった1行の政治批判により国外追放の身となっていた。
長女出産後、家族3人で夫の生まれ故郷ルーマニア南部の小さな村に移り住んだ。

 私は、その村に嫁いだ初めての日本人であり、たった1人のピアニストであった。
数百年前と何ら変わりがないだろうと思える人々の営み、自然の厳しさ、そして美しさ。
私が表現したかった美は、すべて、ここにあった。大地から響いてくる音楽が聴こえてきた。

当時ルーマニアには、楽器店もなくピアノを手に入れるまで時間を要した。調律師の存在はなく、
ピアノ教師やピアニストは、古いオンボロのピアノを自分で調律らしきものをしながら使っていた。
とても貧しかったが、なぜか心は豊かだった。

「水上裕子、ピアニストとしての原点に」
 ルーマニアの聴衆にとても愛されていたと私は自覚する。人々の愛情と自然の美しさ、
厳しさは、私がもつ天性の能力を目覚めさせ、同時に何のためにピアノを弾くのかという
ピアニストとしての原点に立ち返らせた。そこで毎日のように報道されていた、
隣国旧ユーゴの戦争の模様が心に重くのしかかり、これが後にベオグラードピアノトリオ結成の
きっかけとなった。

その後も、生活は困窮を極めるなか、演奏活動を続けながら次女を出産。
多くの人達との出会いのなかで、ピアニストとしての原点を確認した。
「平和のこと、生命のこと、子ども達の幸せ」。そのために戦っていく音楽家になろうと。

「20 年前の初めての中国」
 私の前世は、ここに住んでいたに違いない。100%そうだ。間違いない。大連の港で
そんな風に思いを巡らしながら、一日中ボーッと過ごした。大連に着いてから胸がギューッと
しめつけられる。いや、行く前から、大連、ハルピン、奉天などという音の響きを聞くだけで
キューッとしめつけられていた。私きっとココに住んでたの!

わけのわからない言葉で周りを当惑させても構わない。馬に乗って大地をかけめぐり、
焼け落ちる太陽に向かって飛んでゆく鳥を見つめる私は、何故かチャイナ服。雪の降る日は、
ペチカをたいてバイオリンを弾き、ロバの馬車に乗って訪ねてきた人たちと
紅茶をすすりながら語り合う。私…ココに住んでたのよ!

「ゴルバチョフ軟禁事件、そして、東西冷戦直後のルーマニアへ」
 1991 年、モスクワの川も大地もうんとうんと深いとこからリズムを刻み、太い旋律とともに呼吸していた。
ロシアの風に抱かれ、最初ははしゃいでいて私も、もっと孤独に耐えないと木の葉のように吹き飛ばされて
しまうことを予感した。モスクワ音楽学院留学中に、ゴルバチョフ軟禁事件に遭遇。思いがけず社会主義の
終焉を体験した後、ルーマニアへ。憧れのピアニスト、ラドゥ・ルプーが住むその土地に1度行ってみたかったのだ。
 
革命の傷跡は生々しかったが、ルーマニア人はやけに明るく底抜けの大らかさを感じた。気がついたら数人が
私を囲み、「中国人?日本人?」と訊く。「ジャポニャ」と答えると、「オーッ!」という歓声。
彼らは親切にも、私をタクシーに乗せてくれ、「頑張れよ〜!」と手を握り見送ってくれた。私はさっそく、
ルーマニアの文化庁に演奏テープを持ち込み、リサイタルを実現することになった。


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